≪ 1945~69 '70~79 '80 '81 '82 '83 '84 '85 '86 '87 '88 '89 '90 '91 '92 '93 '94 '95 '96 '97 '98 '99 '00 '01 '02 '03 '04 '05 '06 '07 '08 '09 '10 '11 '12
劇団「文化座」が『春香傳(チュニャンヂョン)』を上演(1947/8/16~31)

東京に本拠を置く劇団「文化座」が第10回公演として張赫宙(チャン・ヒョクチュ、1905〜98/本名は張恩重、チャン・ウンヂュン)脚色の『春香伝』を新宿「帝都座」にて上演。演出は劇団代表の佐々木隆(1909〜67)。雑誌「日本演劇」1947年8月号に利倉幸一(1905〜85)による劇評「文化座の春香伝」が掲載された。文化座によるこの演劇実践は韓国の戯曲を日本の劇団が上演したことから、本稿では「戯曲交換」に分類する。

『春香伝』チラシチラシ
韓国「国立劇場」開館(1950/4/30)

1950年4月29日に国立劇団が創団されるにともない、1935年に建築された府民館を国立劇場として使用した。同年4月30日のこけら落としは柳致眞(ユ・チヂン、1905〜1974)の『元述郎(ウォンスルラン)』。

開館公演直後の1950年6月25日に韓国戦争(ユギオ)が勃発し、国立劇場はソウルを離れて大邱市に疎開した。ソウル還都後は明洞に所在する市公館(旧・明治座)をソウル市議会との共用で劇場として利用した。その後にソウル市議会が1961年に市民会館(旧府民館)へ移ったことから、明洞の市公館(旧・明治座)は1962年から国立劇場として使用されることになった。いま現在の中央国立劇場は1973年10月にソウル特別市中区獎忠洞に建設された劇場。

東亜日報「中央国立劇場誕生」
韓国芸術座が『國劇春香傳』を新宿松竹座ほかで上演(1958/9/25~30)

“獨鵑”崔象徳(“ドキョン”チェ・サンドク、1901〜70)を団長に林芳尉(イム・バンウル、1904〜61)・“琴軒”申快童(“クモン”シン・ケドン、1910〜77)をはじめ朴貴姫(パク・キヒ/本名・呉桂花、1921〜1993)・“春鶯”林終禮(“チュネン”イム・ヂョンネ、1923〜19)など40人が来日し『春香伝』を新宿松竹座(9/25〜30)をはじめ、名古屋・大阪・神戸・京都・福岡などで上演した。評論家のほんち・えいき(1925〜)は「テアトロ」(1985年12月号)のアンケート企画「戦後の来日公演ベストテン」にこの公演を選んだ。朝日新聞(1958/9/12)に「韓国と中国から芸術団/純粋の古典劇を公演」がある。

朝日新聞「韓国と中国から芸術団/純粋の古典劇を公演」
劇団七曜会『朴達の裁判』俳優座劇場(1960/3/11~18)

創立10周年を迎えた劇団七曜会は記念公演として創作劇を連続上演することにし、その最初の作品として在日作家金達寿(キム・ダルス)原作・八木柊一郎脚色による『朴達の裁判』を3月11日から俳優座劇場で上演した。朝日新聞(1960/2/26)に関連記事「どぶろく屋も見学/朴達の裁判、劇化上演/七曜会が十周年記念に」がある。

朝日新聞「どぶろく屋も見学/朴達の裁判、劇化上演」
韓「国立劇場」開館(1962/3/21)

この記事の「国立劇場」は現在の「明洞芸術劇場」。解放前(戦前)は多目的ホールだった明洞所在の「明治座」を解放後に「市公館」として使用していたが、これを改造して「国立劇場」としたもの。開館記念公演はイ・ヨンチャン作/朴珍(パク・チン)演出の『若さの賛歌』。

韓「ドラマセンター」開館(1962/4/12)

ソウル特別市は南山のふもとに「ドラマセンター」が開館した。韓「ネイバー百科事典」に記載された「ドラマセンター」の紹介文は以下のとおり。

1960年、劇作家で演出家の「東朗」柳致眞(「トンナン」ユ・チヂン、1905〜1974)が米ロックフェラー財団からの財政支援によって着工し、1962年に竣工した約500席の半円形客席を持つ演劇専用の中規模劇場。設計は金重業(キム・ヂュンオプ)。財団法人韓国演劇研究所として出発し、設立者の柳致眞を所長として事務局長に申泰皎(シン・テミン)、劇場場に李海浪(イ・ヘラン)、アカデミー院長に呂石基(ヨ・ソッキ) などの陣容を取り揃えた。演劇中興と後進養成のための学習の場を兼ねて設計され、当時としては画期的な開放舞台(open stage)として構築された点が特徴であった。円形舞台はギリシア野外劇場の舞台に模したものであり、主舞台は近代劇の舞台形式である。その他に講義室を含めて図書館や作家室・衣裳室・楽屋など、演劇を学び上演するために必要な施設を取り揃えた。

1962年4月、こけら落としとして柳致眞演出の『ハムレット』を上演し、韓国演劇中興の騎手になると期待された。しかし観客不足と財政的基盤の脆弱性から財政難に陥り、翻訳劇中心の公演で韓国演劇の中興に寄与できなかったという批判の中で、けっきょく興行を主目的とする貸し劇場に変化した。

ドラマセンターは児童劇団「童演(トンヨン)」や専属劇団である「劇団ドラマセンター」を創立して多くの演劇人を養成し意慾的な演劇活動を開いた。「劇団ドラマセンター」は1974年に柳致眞が死んだ後に名称を、彼の号を取って「東朗レパートリー劇団」とし、1970年代に反写実主義演劇運動を展開して、韓国劇界に大きな変化を起こした劇団として注目された。1962年に職業俳優と演劇人養成のために設立した付設「韓国演劇アカデミー」はその後「ソウル芸術専門学校」(1974年)を経て、1998年には「ソウル芸術大学」に発展した。(一部修正・加筆)

1962年のドラマセンター開館に関連する記事は「東亜日報」と「京郷新聞」と「毎日経済新聞」だけで377件に上り、大きな話題だったことがわかる。しかしドラマセンターはオープンしてまもなく財政難にみまわれ、その後「ソウル文化財団」が運営にあたり名称も「南山藝術センター」と変更されるなどさまざまな変化を経たが2020年12月31日付で閉館した。現在は南山芸術センターデジタルアーカイブとして残されている。

設立当時の「ドラマセンター」外観 設立当時の「ドラマセンター」外観
朝鮮日報「日本へ行く児童劇団セドゥル」(1963/6/22)
朝鮮日報「日本へ行く児童劇団セドゥル」
わが国の児童劇団として一番最初に生まれ、この間に3回の公演を行った児童劇団「セドゥル」(団長・朱萍)が日本の東京にある「亜細亜友之会」(東南アジア各国の文化交流機関)の招請を受け、夏休みを利用して来る8月1日からひと月のあいだ九州から北海道まで、日本各地を回って公演を持つことになった。東京韓国学院、在日居留民団、在郷軍人会東京支部などの後援ですべての費用を「亜細亜友之会」で引き受け、公演旅行を行うことになった児童劇団セドゥルの公演作品は第1回公演作品である『ウサギ伝』(5幕、朱萍氏演出)で、今回招請を受けた人員は25名で、8歳から11歳までの男女子供団員20名と職員3名、姉・母2名。

【解説】韓国南部の統營(トンヨン)出身の児童文学者・朱萍(チュ・ピョン、1929〜)を代表として1962年に創団された児童劇団「セドゥル(鳥たち)」は、1963年から1965年にかけて3回にわたる日本公演を行った。韓国の新聞記事によると最初の日本公演は「日本亜細亜友之会」の招請で、居留民団と東京韓国学園などが後援となって実施された。上演作品は『森の花の精』(朱萍・作)や『うさぎ伝』(朱萍・作、李城・演出)などで、公演は北九州地方から始まり関西・関東を経て東北地方まで巡回した。朝鮮日報は「日本へ行く児童劇団セドゥル」(1963/6/22)という見出しの記事で、韓国の児童劇団「セドゥル」の最初の訪日公演を報道した。

日本公演を終えたチュ・ピョン代表は東亜日報(1963/10/19)紙上で日本の児童演劇の現況を紹介するとともに、セドゥルの舞台が日本で好評を得たこと、特に成人演技者ではなく児童が舞台に立って演じるというセドゥルのスタイルが珍しがられたと語った。

翌1964年は「日本児童演劇協会」の招請で日本公演を行った。当時の日本児童演劇協会会長であった栗原一登(1911〜94)が主導して招聘し、同協会の北島春信(1927〜)の引率によって、戦前から劇教育で有名な成城学園で児童たちに見せたという(日本児童演劇協会、2011年4月6日)。上演作品は前回と同じく『森の花の精』や『うさぎ伝』などで、これらの作品とともに韓国の歌や舞踊が演じられた。しかし1965年の第3回めの日本公演では、前回の公演で「物議をかもした日本の歌はうたわない」(京郷新聞、1965/11/3)ことにしたという。このことから当時の韓国社会ではたとえ児童劇団であっても日本の歌をうたうことはタブーであったことがわかる。

セドゥルの日本公演は1965年以後は行われなかったようで、60年代の日・韓間の児童演劇交流はこれ以上には活性化しなかった。しかし後述するように、セドゥルとの交流は日・韓間の人の往来が容易ではなかった時代に日本演劇人が韓国演劇に接する機会をもたらした。1965年に栗原と北島がチュ・ピョンの招請で韓国を訪問することになったのである。

東亜日報「児童劇団セドゥル、渡日」(1963/8/19)

東亜日報は1963年8月19日付けの記事「児童劇団セドゥル、渡日」で「セドゥル」の訪日公演を報道した。

「児童劇団セドゥル、渡日」
児童劇団「セドゥル」が日本アジア友の会の招請で20日、船便で渡日し、一ヶ月のあいだ日本各地を巡回公演することになった。児童劇(朱萍:チュ・ピョン作)『森の中の花精』(全5幕)上演と歌謡・舞踊などのプログラムで巡回する「セドゥル」劇団は朱正雄(チュ・ヂョンウォン)氏を団長に、舞台関係3名、保護者(姉・母)2名、出演児童20名の25名で構成されている。崔光葉・張世準氏の企画・指揮で進行する今回の渡日公演の地区別スケジュールは次のごとくである。▲北九州地区…8月21日 ▲中国地区…8月22日〜23日 ▲関西地区…8月24日〜27日 ▲中部地区…8月29日〜30日 ▲関東地方…8月31日〜9月5日 東北地区…9月7日〜20日。
東亜日報「日本へ行く子供劇団/セドゥル、来月出発予定」(1964/7/25)

東亜日報(1964/7/25)は「日本へ行く子供劇団/セドゥル、来月出発予定」で、「セドゥル」の3度めの訪日公演を報道した。

「日本へ行く子供劇団/セドゥル、来月出発予定」
幼い演技者で組まれた児童劇団「セドゥル」が日本児童劇協会の招請を受け、8月中旬の日本に発つ。昨年8月にも日本で公演した「セドゥル」は朱萍作、李城(イ・ソン)演出の『ウサギ伝』(3幕)をもって日本に向かうが、出発に先立ち24日から国立劇場で一日に3回ずつ(2時、5時、8時)記念公演を行っている。水の国の竜王の病を治すためにウサギの肝をさがして現れた亀はウサギを連れて水の国へ行くが、多くのウサギが危険な瀬戸際を乗り越えて生き残るという物語だ。
『ウサギ伝』にはこの間映画によく出るアン・ソンギ、ユ・マンソン、朴チョンファ、朴クミ、チョン・ヨンソンなど幼いスターを含んで、40名の子供たちは東京や大阪・名古屋などあちこちで韓国語で『ウサギ伝』を公演することになる。アン・ソンギと朴チョンファが亀の役をやり、朴クミとチョン・ミヨンが親ウサギ、ユ・マンソンとチョ・ヨングォンがずるがしこいキツネ役で出る。
グランドバレー『自鳴鼓』東京文化会館(1964/11/1と11/3)

1964年10月に開催された東京オリンピック直後の同年11月、日本と韓国の共同制作作品を東京会館で上演した。韓国の元老演劇人である柳致眞(ユ・チヂン、1905〜74)『自鳴鼓』を青山圭男(1903〜1976)が構成・演出し、作曲は夏田鍾甲(禹鍾甲、1916〜?)が担当した。主演にはこの当時日本で韓国舞踊を教えていた金順星(キム・スンソン)が務め、国際アーチストセンターの会員など多数の舞踊家が出演した。

京郷新聞「舞踊劇『自鳴鼓』/日本で公演準備」
古典舞踊家金順星女史は来る秋の東京オリンピックを契機に、日本に集まる世界各国人士に韓国舞踊を紹介しようと準備中だ。この計画は既に渡日した金女史と著名な日本の舞踊家たちの間で具体化しているが、レパートリーは柳致眞作『自鳴鼓』を舞踊劇にしたもので、振り付け・主演を金女史が担当し、その他のスタッフとキャストは多くの日本人が参加している。公演日程は来る11月初旬に東京の上野にある文化会館と大阪国際文化会館などで上演する予定だ。
東亜日報「児童劇団セドゥル、20日に渡日」(1965/1/16)
東亜日報「児童劇団セドゥル、20日に渡日」
児童劇団「セドゥル」が在日居留民団招請で20日、船便で渡日、23日から東京をはじめ日本全域15ケ都市で公演する。出し物は『ウサギ伝』(全3幕)と舞踊10種、音楽7種などで、団長の朱萍氏が20余名の団員を引率して出発する(職員3名、姉・母8名)。「セドゥル」は昨年8月にも日本の主要都市を巡回公演した。
朝日新聞「韓国の演劇を見て<上・下>」(1965/6/23)

劇作家の栗原一登(劇作家、当時は日本児童演劇協会会長)が北島春夫とともに韓国演劇協会の招請で5月末から6月中旬まで韓国を訪問した。そして韓国各地で児童劇や大学演劇を観覧し、ソウルの「ドラマセンター」などを訪問した。その時に見聞したことを朝日新聞1965年6月23日に「韓国の演劇を見て<上>」という記事を、そして翌6月24日に「韓国の演劇を見て<下>」という記事を寄稿した。

京郷新聞「セドゥル児童劇団、第3次日本公演」(1965/11/3)
京郷新聞「セドゥル児童劇団、第3次日本公演」
セドゥル児童劇団は12日、第3次日本公演のために出発した。朱萍氏の引率で6〜7歳の子供団員17名は日本児童演劇協会の招請で『沈清傳(シムチョンヂョン)』と民謡の合唱および舞踊などのプログラムで生き生きとした韓国の子供たちの姿を東京をはじめとする9ヶ地域で見せることになる。物議をかもした日本語の歌は唄わないことにした。
劇団山河(サナ)『孤独な英雄』国立劇場(1969/4/11~13)

韓国の劇団「山河(サナ)」は福田恆存(1912〜94)の戯曲『解ってたまるか!』を『孤独な英雄』と翻訳・改題して国立劇場で上演した(〜4/13日)。翻訳は韓国の元老演劇人で日本語の堪能な車凡錫(チャ・ボンソク、1924〜2006)が行い、演出は「山河」の創団同人である表在淳(ピョ・ヂェスン、1937〜)が当たった。東亜日報の「日本知識人風刺劇、『孤独な英雄』公演/劇団山河」(1969/4/11)で簡略に紹介された。『孤独な英雄』の底本となった『解ってたまるか!』は1968年2月に起きた「金喜老事件」を素材にして、福田恆存が劇団四季のために書き下ろした作品である。

「日本知識人風刺劇、『孤独な英雄』公演/劇団山河」
「劇団山河は福田恆存原作・車凡錫翻訳の『孤独な英雄』(全4幕)を表在淳演出で13日まで国立劇場で公演中だ。金喜老事件をモデルにしたこの作品は仮面をかぶった日本の知識人らを風刺しており、日本作家の作品が韓国の舞台にあがるのは815以後こんかいが初めてだ」
 ≪ 1945~69 '70~79 '80 '81 '82 '83 '84 '85 '86 '87 '88 '89 '90 '91 '92 '93 '94 '95 '96 '97 '98 '99 '00 '01 '02 '03 '04 '05 '06 '07 '08 '09 '10 '11 '12