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【概観】1970年代に入って韓国演劇は大きく成長した。京郷新聞(1979/12/26)によると、70年代初期は約20あまりの劇団が年40回公演を行ったが、70年代の末には約50あまりの劇団が年200回公演を行うまでに韓国演劇は拡大した。演劇評論家の呂石基(ヨ・ソッキ、1922〜2014)はこの時期の韓国演劇の活況の要因を、まず新装なった「国立劇場」が広範囲の公演活動を支持し、次に同人制劇団が韓国演劇を主導する座を確固としたことをあげた。そして1972年8月に公布された「文化芸術振興法」によって1973年10月に「韓国文化芸術振興院」が設立され、文化芸術に対する支援政策を展開したこともあげた。また1977年9月からまいとし開催された「大韓民国演劇祭」も刺戟になったと説明した(『韓国の公演芸術』ITI韓国本部、1999、pp.56〜57)。

京郷新聞「アンダーグラウンド演劇ブーム起こる」(1971/5/18)

当時「韓国演劇協会」の会長だった劇作家の車凡錫(チャ・ボンソク)が日本を訪問した。当時の日本演劇界のようすを「商業主義演劇とアンダーグラウンド演劇のふたつの演劇活動が活発になりつつも、創作劇はやはり韓国とおなじように大きな悩みを抱えている。さいきん日本演劇協会の招請を受けて日本演劇を見て回った車凡錫演劇協会長は語った」ど紹介した。

京郷新聞「アンダーグラウンド演劇ブーム起こる」
劇団「状況劇場」『二都物語』韓国公演(1972/3/23)

朴正煕(パク・チョンヒ、1917〜1979)政権下の韓国で、唐十郎(1940〜)と劇団「状況劇場」海外遠征隊が『二都物語』をソウルの西江(ソガン)大学キャンパスで上演した。このとき韓国側協力者である劇団「常設舞台」は『金冠のイエス』(李東眞・作、金芝河・脚色)を上演した。この状況劇場の公演は「戒厳令下で行われた」と言われているが、しかしこの時は「戒厳令」も「衛戍令(ウィスリョン)」も発令されていなかった。関連の報道記事は京郷新聞が1972年3月22日に前記事を出し、東亜日報が1972年3月25日付の記事で舞台のようすを報道した。

京郷新聞「常設舞台、日劇団と共演」(1972/3/22)
「劇界〈常設舞台〉は日本の〈状況〉劇団の来韓を迎え、合同公演を23日夜7時30分に西江大学校野外コートで開く。レパートリーには〈常設舞台〉が李東眞作『金冠のイエス』をチェ・ヂョンユルの演出で、〈状況〉劇団が唐十郎作『二都物語』を作家の演出で公演する。」
東亜日報「演芸手帖/日、前衛劇団〈状況〉初来韓公演」(1972/3/25)
日本の前衛劇団〈状況〉が去る23日午後7時、西江大学野外コートで公演をおこない話題を振りまいた。劇界〈常設舞台〉と合同公演として準備された〈状況〉は日本の前衛劇ではとても活発に動いている劇団で、リーダー格の唐十郎氏は日本前衛劇の旗手として知られている。劇場の舞台を抜け出し、場所をとわず演劇を行う彼らは台本といえば動作の説明に過ぎず、台詞はありふれてアドリブで処理、ページェントに近いわけだ。日本劇団としては最初の来韓公演でもあるこの日の夜、レパートリーは唐十郎自作の『二都物語』。現代人の疎外感を誇張して見せる作品で、6名の俳優らがたとえ言いよどんだりはしたが台詞を韓国語で語り喝采を集めた。広々とした芝生を舞台に闊達に動く彼らはスポットライトを活用、異色の感興を分かちあったりもした。
劇団「状況劇場」の『二都物語』韓国公演に関連する日本側記事

劇団状況劇場『二都物語』韓国公演に関する日本側記事には読売新聞「韓国で芝居をうつ 西江大学、夜の校庭で/修道尼まじる五百の客/状況劇場、唐十郎のリポート」(1972/2/28)と、朝日新聞「唐十郎の新作上演/東京とソウルを結ぶ『二都物語』」(1972/4/28)がある。

読売新聞「韓国で芝居をうつ」

朝日新聞「唐十郎の新作上演/東京とソウルを結ぶ『二都物語』」
文化座『春香傳』上演(1972/4/14〜22)

劇団「文化座」が第50回公演として『春香伝(チュニャンヂョン)』を上演。許南麒(ホ・ナムギ)本を土台に脚本家の寺島アキ子(寺嶋秋子、大連:1926〜2010)が脚色。演出は村山知義(1901〜77)。在日の演劇学者である金両基(1933〜2018)による劇評『厚味を増した劇化・演出--文化座“春香伝”』が「テアトロ」(1972年6月号)にある。また東亜日報が「日演劇団、文化座創立30周/紀念公演に春香伝上演」(1972/4/6)で、1938年に劇団新協が村山知義の演出で『春香伝』を初演したこととあわせて紹介した。

劇団民藝『銅の李舜臣』砂防会館(1972/9/6~7)

劇団民藝の米倉斎加年(1934〜2014)が金芝河(1941〜2022)の作品『銅の李舜臣』などを砂防会館(東京・平河町)で上演。1970年代の初期から約10年間のあいだ、劇団民藝や京浜協同劇団などの地域劇団で金芝河作品がさかんに上演された。下表は新聞や演劇雑誌等で紹介された金芝河関連の上演作品リスト。

金芝河作品上演リスト
韓「国立劇場」開館(1973/10/17)

ソウル特別市中区獎忠洞に「中央国立劇場」が開館した。これによって明洞「国立劇場」は貸館劇場となる。

獎忠洞「国立劇場」
「韓国演劇」1976年1月号「劇界動静/日本の演劇誌で韓国演劇が紹介される」

日本の演劇誌「新劇」10月号の小特集『知られざる海外演劇』欄に、韓国の雑誌「新東亜」(1975年1月号)に掲載された張潤煥の『韓国の前衛芸術』から演劇に関する部分のみを抜粋し、日本語訳(康米邦訳)されて転載された。(p.156)

韓国演劇の記事
SKD松竹歌劇団・国際劇場『沈清伝・美しき水蓮の物語』公演(1976/2/2〜26)

国際劇場プロデュースによる日韓合同公演。SKD松竹歌劇団・国際劇場ミュージカル第1回グランドステージとして、星野和彦の作・演出による『沈清伝・美しき水蓮の物語』を上演した。韓国の新聞記事によると、当初は韓国人演技者が主役を演じることにしていたが言葉の問題があり、けっきょく韓国側からは日本語に慣れた元老演技人たちを出演させることにしたという。主役の沈清(シム・チョン)は松竹歌劇団27期生の千景みつるが演じた。

韓国側の関連記事には東亜日報「日本で好評得るミュージカル沈清伝」(1976/2/1)と、京郷新聞「ミュージカル『沈清伝』日本でヒット/韓・日混成俳優たち熱演」(1976/2/7)がある。

劇団「架橋(カギョ)」『平和の王子』東京・恵泉女学園(1976/5/25)

李昇珪(イ・スンギュ)が代表を務める韓国の劇団架橋(カギョ)『嫁ぐ日』『平和の王子』を持って、台湾・マカオ・日本などを巡演した。日本では恵泉女学園や国際基督教大学などで『平和の王子』(毛眞珠・作)を上演した。恵泉女学園の資料によると同年「5月25日にキリストの生涯を描いた影絵芝居『平和の王子』を上演し、見るものと演じるものが一体になった感動的な舞台であった」(筆者による電話インタビュー)という。これまで韓国現代劇の日本公演は行われなかったので、李昇珪は「韓国の文化、特に現代文化についてあまりにも知らないでおり、したがってわれわれの演劇に対しても意外であるという表情だった」という日本公演の印象記を「韓国演劇」1976年6月号に寄せた。しかし劇団架橋の日本公演はキリスト教関係に限られたので、韓国演劇を広範に日本へ紹介するにはいたらなかった。

「韓国演劇」1977年5月号「劇界動静/菊島隆三氏、訪韓」

「韓国演劇」1977年5月号は「日本演劇協会常任理事の菊島隆三氏が去る4月17日〜22日の一週間、韓国演劇界を視察した。氏は韓国演劇協会の李眞淳理事長を表敬訪問し、歓談した(p.54)」という短信記事を掲載した。これは日本人映画監督の稲垣浩を代表に菊島隆三や杉義一、内海一晃ならびに東京宝映社の香山新二郎社長とシナリオ作家の直居欽哉、そしてオリエンタルアートプロダクションの星野忠光(李忠)が訪韓した際に、菊島らが演劇協会を訪問したことを報告した短信記事。このときに同行したシナリオ作家の直居欽哉と車凡錫との出会いが1979年春の劇団フジによる『鳳仙花咲く丘』(直居欽哉作・田村丸演出)公演に結び付いた。

「韓国演劇」1977年5月号「劇界動静/菊島隆三氏、訪韓」
日本演劇協会常任理事の菊島隆三氏が去る4月17日〜22日の一週間、韓国演劇界を視察した。氏は韓国演劇協会の李眞淳理事長を表敬訪問し、歓談した(p.54)
【関連記事】東亜日報(1977/4/22)は「不況の沼でもがく日本映画界/日本の元老監督“稲垣”氏来韓」という記事で、稲垣浩(1905〜80)を筆頭に菊島隆三(1914〜89)や斉藤茂夫(1928〜99)など日本の映画・テレビ関係者10名が訪韓したと報道した。
稲垣浩訪韓記事

直居欽哉は「シナリオ」(1977年8月号)に5月の訪韓に関する記事『韓国映画界見聞記』を寄稿した。

韓「第1回大韓民国演劇祭」開催(9/9〜11/9)

「大韓民國文化藝術振興院(文芸振興院)」は創作劇育成のための支援制度を拡大し、「第1回大韓民国演劇祭」を9月9日から11月9日まで2か月の日程で開催した。演劇祭の会場には「セシル劇場」と「市民会館別館」を使用。

京郷新聞「第1回大韓民国演劇祭」(1977/9/9)
第1回大韓民国演劇祭が9日から11月9日まで2か月間、ソウルのセシル劇場と市民会館別館で開かれる。創作劇育成のために文芸振興院が主催したこの演劇祭では10ケ劇団が創作劇を公演する。最優秀作品には賞金200万ウォンの大統領賞が、4つの優秀作品には賞金100万ウォンの文公部長官賞がそれぞれ与えられる。
「韓国演劇」1978年1月号「劇界動静/李眞淳理事長が日本を訪問」

韓国演劇協会の李鎭淳(イ・ヂンスン)理事長が日本演劇協会の招請で日本を訪問したという記事。李理事長はこの後、同年6月にも日本を訪問した。日本劇界の視察と言う名目だが、劇団フジが1979年春に上演した『鳳仙花の咲く丘』公演に関する案件ではないかと考えられる。『鳳仙花の咲く丘』公演後に東亜日報はこの作品に出演した韓国人演技者の白星姫(ペク・ソンヒ)に対するインタビュー記事を掲載したが、そこに「この演劇を企画したフジ劇団長は韓国演劇人の特別参与を依頼」(1979年4月13日付)していたとあるからである。しかし日本側の関連資料はまだ確認できないでいる。

【記事】本協会の理事長(李眞淳、イ・ヂンスン)は日本演劇協会の招請によって、日本の劇界を視察するために1月22日10時、KAL便で出国した。滞留期間は約一週間で、1月30日に帰国予定。(p.206)
「韓国演劇」1978年6月号「劇界動静/李眞淳(イ・ヂンスン)理事長が日本視察」
【記事】李眞淳(イ・ヂンスン)理事長は来る15日、日本の劇界視察のためKAL機で現地へ向かう予定。 滞在期間は約10日間となるといわれるが、去る1月にも日本の劇界視察のため訪日した。(p132)
「韓国演劇」1978年6月号「劇界動静/車凡錫(チャ・ボンソク)理事、日本視察」
【記事】車凡錫(チャ・ボンソク)演劇協会理事は本協会理事長よりも先に、来る11日に出国する予定。 滞在期間は約10日間で、本協会理事長と任地で合流する予定。(p132)
「韓国演劇」1978年10月号「劇界動静/現代演劇協会の福田恆存氏、訪韓」

「現代演劇協会」の福田恆存(1912〜94)が韓国を訪問したという記事。福田の韓国訪問は後述する劇団「昴」と金正トが主宰する劇団「自由劇場」の相互訪問公演(1979年10月と11月)の準備と考えられる。なお、この記事には「三百人劇場建立計画」と記述されているが、現代演劇協会のウェブサイトによると三百人劇場は4年前の1974年(昭和49年)に開館した。

【記事】「日本の著名な演劇学者であり英文学者である劇作家福田恆存氏が政府の招請で去る10月8日に入国、国内演劇界をあまねく回って10月16日に出国した。
福田氏は11日午前11時、日本の現代演劇協会理事長として韓国演劇協会李眞淳理事長を表敬訪問したが、この席で両氏は韓日間の演劇交流問題に対して約一時間半ほど協議した。両氏は歓談のあと、韓日演劇交流に対して韓国政府の高位層の支援約束を得るために政府高位層を表敬訪問した。その結果反応は良かったとされており、これからの作業の進行が注目される。
いっぽう福田氏は彼が推進している日本の“三百人劇場”建立計画の資料や演劇の本などを李眞淳理事長に贈り、李理事長は韓国の陶磁器と韓国戯曲文学大系二巻を贈った。
あるいはまた、この日の夜7時半には福田氏のために晩餐会をコリアハウスにて李理事長主催で行ったが、この席には金正ト、林英雄、白星姫、金義卿、許圭、李昇珪、金載亨の各氏と福田氏の同伴者である日本の演出家荒川哲生氏が参席し、話に花を咲かせた。
福田氏は劇団山河の『鐘』を観覧し、金正ト氏の招きで八堂(パルダン)にある金氏の別荘で午餐を楽しんだりもした。」(p.51)
劇団フジ『鳳仙花の咲く丘』砂防会館(1979/3/21〜4/1)

劇団フジは創立20周年記念舞台として木浦の孤児院「共生園」を運営する田内千尹鶴子(日本名:田内尹鶴子、1912〜68)を主人公にした『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉/作、田村丸/演出)を東京の砂防会館で上演した。この舞台に韓国の白星姫(ペク・ソンヒ)と鄭旭(チョン・ウク)の二人の韓国人演技者が出演した。駐日韓国大使館の李元洪公使と李奉來(イ・ボンネ)韓国芸術文化団体総聯合会長、劇作家の車凡錫(チャ・ボンソク)らがこの公演を観覧し、李眞淳(イ・ヂンスン)韓国演劇協会理事長が舞台挨拶を行った。

韓国演劇「白星姫氏、日本の舞台に立つ」
「韓国演劇」記事

【作品の背景】1978年4月に映画監督の稲垣浩を代表に菊島隆三や杉義一、内海一晃ならびに東京宝映社の香山新二郎社長とシナリオ作家の直居欽哉、そしてオリエンタルアートプロダクションの星野忠光(李忠)らが訪韓した。日本映画人が韓国を訪問した。このとき菊島隆三に同行した香山とシナリオ作家の直居欽哉は車凡錫(チャ・ボンソク)から木浦所在の孤児院「木浦共生園」を紹介された。「木浦共生園」は尹至浩(ユ・ンチホ)と尹鶴子(ユン・ハクチャ/田内千鶴子)が運営する孤児院で、韓国戦争の際にユン・チホが行方不明になってからは妻の尹鶴子が運営していた。このことが1979年春に劇団フジによる『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉作/田村丸演出)の上演に結び付いたと考えられる。直居は雑誌「シナリオ」1977年8月号に「韓国映画界見聞記」という手記を残しており、この記事からも韓国訪問時に菊島隆三と直居欽哉が李眞淳や車凡錫に会ったことが確認できる。

木浦で孤児院を運営した尹至浩(ユン・チホ)と尹鶴子(ユン:ハクチャ、日本名:田内千鶴子、1912〜1968)夫婦の話はこの『鳳仙花の咲く丘』に限らず、何度も映画やドラマ作品として企画・制作された。最初の映画化の試みである『玄海灘よ語れ』(1973)は映画監督の姜大宣(カン・デソン)が企画し、車凡錫がシナリオを書いた。これとほぼ同じ時期にNHKの川端政道プロデューサーがドラマ化のために韓国を訪問して韓国人シナリオ作家である韓雲史(ハン・ウンサ)に脚本を依頼し、川端と韓は取材でたびたび共生園を訪問した(毎日経済、1973/12/19日付)。その後、車凡錫の総指揮で韓国のキム・スヨン監督が映画『愛の黙示録』(1995)を制作したが、これは最初の韓・日合作映画となった。いっぽうNHKはドキュメンタリー『20世紀 家族の歳月“わが子は3700人〜田内家3代・韓国の孤児と歩む〜”』(1999年8月10日放送)を制作した。また著作物としては『愛の黙示録』(尹基、汐文社、1995)と、尹鶴子の孫である田内緑を主人公にした『海をわたる風』(上野紀子、講談社、2001)などがある。尹鶴子の故郷である高知県では「高知田内千鶴子愛の会」が高知新聞社を通じて『木浦の愛』(高知新聞企業、2007)という小冊子を発行し、尹鶴子(田内千鶴子)の業績を顕彰した。

「韓国演劇」1979年5月号「巻頭言/国際間の演劇文化交流/李眞淳」

「韓国演劇」1979年5月号の巻頭で李眞淳(イ・ヂンスン)演劇協会理事長が日本との演劇交流に言及した。

韓国演劇『国際間の演劇文化交流』李眞淳
【部分翻訳】4月初に日本の東京で、そこのフジ劇団が韓国を主題にした『鳳仙花の咲く丘』公演に白星姫と鄭旭の二人の出演することでその公演の意義をさらに輝かせており、2次大戦終了後34年ぶりに鳳仙花の歌が日本・東京の空にこだましたことはまた異なる意味で意義があったと思う。10月には日本の現代演劇協会傘下の劇団昴の来韓公演が行われる予定であり、わが国の劇団自由劇場の『何になるというのか』の渡日公演がある。
劇団昴『海は深く青く』韓国公演(1979/10/26〜30:世宗文化会館小劇場)

日本の劇団「昴」がテレンス・ラティガンの『海は深く青く』をソウルの世宗文化会館小講堂で上演。ところが演劇祭の始まる10月26日に当時の朴正煕大統領が側近の金載圭中央情報部長に射殺されるという事件が起こり戒厳令が発令され、すべての文化行事が中止になった。しかし昴の公演は金正トなどの韓国演劇人の努力によって上演回数を3回に短縮して行われた。その他の文化行事は国葬後に再開された。

韓国演劇「特集/韓日演劇交流公演」

東亜日報「日スバル公演縮小」

【相互訪問公演の経緯】劇団「自由劇場」の演出を担う金正ト(キム・ヂョンオク、1932〜)は1978年夏、ベネズエラの首都カラカスで開催された「第三世界演劇祭」からの帰途東京に立ち寄った。そして福田恆存と面会し、相互訪問の形式で演劇交流を行うことで福田の同意を得た。同年10月に福田は韓国を訪問し、李眞淳(イ・ヂンスン)韓国演劇協会会長と面会した。福田と李は演劇交流に関して歓談し、韓国高位層の協力を得るために政府関係者を表敬訪問した。このようにして韓・日の本格的な現代演劇交流が始まった。

金正トが福田恆存を演劇交流の相手として選択した理由は、福田が演劇人でありながら同時に日本の右派論客として60年代から韓国で名を知られていたからだろう。韓国芸術院(李鍾和院長)が日本と中国(台湾)から識者を招請し芸術交流に関する「アジア芸術シンポジウム」(1973)を開催した際に、福田は村松剛(仏文・評論家、当時は京都産業大教授)とともに参加した。また福田は1975年10月に開催された芸術院主催の光復30年記念行事「アジア芸術人シンポジウム」に演劇部門で参加し、主題発表「現代芸術においての社会性と内面性」を行った。シンポジウムは21日から23日までソウル市會賢洞の貿易開館で開催され、徐恒錫(ソ・ハンソク)の司会による演劇分科で呂石基(ヨ・ソッキ)と福田が主題発表を行い、質疑には柳敏榮(ユ・ミニョン)、李眞淳(イ・ヂンスン)、李海浪(イ・ヘラン)、車凡錫らがあたった(雑誌「文芸振興」から引用)。

雑誌「文藝振興」記事「アジア芸術シンポジウム韓・日代表発表論文」

【公演後の反応】昴の韓国公演に対する韓国社会・劇界の反応は多様だった。京郷新聞は既に同年5月に紙面で「韓国劇団の渡日公演と日本劇団の来韓公演はその比重は決して同じにはなり得ない」(1979/5/21)という劇界関係者の意見を紹介した。日本語による上演は「日帝の教育を受けた壮年層が非正常な反応を見せる憂慮もあり、韓国文化に浸透した日本の影響力を見ても、このような日本文化の直接的な流入は特別の'文化的関税'が必要ではないか」(前掲の記事)という主張だった。

このような意見は公演後にも反復して提示された。東亜日報(79/10/31)は公演直後に「観客、大部分40〜50代/日本語、台詞、食い違う評価」という記事を掲載した。この記事は観客層がふだんとは異なり壮年層が多かったことを見出しで表現し、日本演劇を懐かしがる層が韓国に存在することを暗示した。公演倫理審査委員の李●●(紙面判読不可)は「会場で日本語で冗談をやり取りしている50代の観客を見て、まだ時期尚早だという考えを堅くした」(前掲の記事)と語った。漢陽大学教授の柳敏榮(ユ・ミニョン)は日本との直接的な文化交流に反対する立場から、韓国演劇は日本が歪曲した形態の西欧演劇を受け入れたものであり、新派劇や商業演劇の被害がいまだに残っているのであと20年くらいは開放しないほうが良いと語った(前掲の記事)。

このような意見に対して、延世大学新聞放送学科の李相回教授は「文化閉鎖主義は好ましくない」という意見を見せた。歳若い観客は「まず日本演劇を見ること自体が興味深く、俳優の動作や舞台装置が緻密に作られていて立派だった」と好意的だった。韓国日報に掲載された「日・韓演劇交流、好ましいか?」(11/2)という長文の解説記事でも同様の賛・反両主張が反復された。この記事では演劇評論家の鄭鎭守(チョン・ヂンス)が「無条件開放ではなく、芸術性の優れた作品は相互発展のために互いに交流してみるのがよい」という意見を載せ、また文化界の意見として「日本文化をいつ、どの線から受容するのか公開的に評価するのが良い」という意見も掲載した。なお、金正トは1992年に「韓国演劇の裏道/政変時ごとに検閲を気遣う」(東亜日報)でこの当時を回想した。

劇団「自由劇場」日本公演(1979/11/20〜25:三百人劇場)

韓国の劇団「自由劇場」が朴牛春(パク・ウチュン)作『何になるというのか』(金正ト演出)と、ジョルジュ・フェドー作『袋詰めの猫 chat en poche』(日本側資料では『買い急ぎご用心』)を三百人劇場で日替わり上演した。劇団「自由劇場」は東京公演の後に名古屋(CBCホール)と大阪(毎日ホール)でも公演を行ったが、これらはすべて韓国作品のみを上演した。「自由劇場」の日本公演作品が2作品になった理由は、福田恆存が金正トが送ってきた舞台ビデオを見て不安になり、一般的な作品を準備して欲しいと要求したからである(金正ト氏へのインタビュー、2011年2月)。しかし自由劇場の韓国作品が好評を得たことから、東京以外の公演地では『何になるというのか』だけを上演した。

劇評記事としては讀賣新聞(1979/12/1)「初の韓国新劇に感銘/11月の新劇」があり、金正トへのインタビュー記事は産経新聞(1979/11/28)「意義ある文化交流/韓国演劇が初来日」と讀賣新聞(1979/11/29)「人間登場/芸術学び日本理解」がある。またこの日本公演に演技者として参加した朴雄(パク・ウン、1940〜)が2001年1月26日付け韓国日報に「生涯わすれることのできないこと/劇団自由の初舞台」という記事を寄せた。

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