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「第5次第三世界演劇祭」ソウル開催(1981/3/15~22)

ソウルで開かれた「第5次第三世界演劇祭」に日本の能が公式招請された。「韓国演劇」の記事によると、能の演劇祭への参加は2年前の1979年から交渉が始まっていたという。雑誌「観世」1981年7月号に中村保雄(能面研究者、1919〜96)による「能楽団の韓国公演/第三世界演劇祭に参加して」(p28~32)という記事がある。

日本の現代劇として「KSEC(国際青年演劇センター)」が「韓国演劇上演会」と提携して『海峡』(亀山孝治作、パク・ピョンヤン演出)を文藝会館小劇場で上演した(3/18〜19)。このとき京都に本拠を置く舞踏集団「白虎社」(代表:大須賀勇)が参加し、女性が裸で踊るというので評判になった。演劇評論家の李泰柱(イ・テヂュ)は「日本のKSECの『海峡』はアルトー的な残酷性とグロトフスキーの裸の舞台の実現だったが、舞踊的要素と演劇的要素、そして音楽的要素のあいだの連結が不足してトーンの一致を感じられなかったが、衝撃と苦痛の美学を伝達する舞台だった」(東亜日報、1981/3/23)と評した。KSECの公演は3月18日と19日で、両日とも午後3時と午後7時の一日2回公演と記録されている。KSECの上演作品名はITI韓国本部の資料ならびに韓国日報の記事では『新鮮な鮑粥』となっているが、文化芸術振興院の機関紙「文芸振興」1981年4月号では『海峡』と記述されている。なお「韓国演劇上演会」は前年に東京で呉泰錫の『草墳』を上演した団体。

演劇祭関連の報道記事は以下のとおり
京郷新聞「第3世界演劇祭 開幕」(1981/3/15)
韓国日報「第3世界演劇祭、きょう開幕」(1981/3/15)
韓国日報の紙面ではKSECの公演作品名が『新鮮な鮑粥』になっている。劇場は文芸会館小劇場。
東亜日報「精巧・神秘…卓越した演技力/柳敏榮」(1981/3/19)
韓国日報「第三世界演劇祭を訪れた世界の演劇人達(観世元昭インタビュー)」(1981/3/19)
京郷新聞「第三世界演劇祭、あれこれ」(1981/3/20)
【記事の部分翻訳】「舞台上にそれぞれの技法をもっとも多く見せた演劇は、日本の国際青年演劇センター『海峡』公演。日本社会で在日僑胞が処している状況をリアルに部分的に描きつつ、マネキン演劇を連想させるきわめて前衛的で陰惨で、戦慄が巻き起こす地獄と現実のあいだの幻想を演出。」
東亜日報「文化の独自性を認識させた祝祭/李泰柱」(1981/3/23)
【記事の部分翻訳】「日本のKSECの『海峡』はアルトー的な残酷性とグロトフスキーの裸の舞台の実現だったが、舞踊的要素と演劇的要素、そして音楽的要素のあいだの連結が不足してトーンの一致を感じられなかったが、衝撃と苦痛の美学を伝達する舞台だった」(イ・テヂュ演劇評論家)
韓「文芸会館」開館(1981/4/1)

京城帝国大学のマロニエ広場などの跡地を利用して文化の街とした「大学路(テハンノ)」に、「公演芸術の振興と公演人口の底辺拡大」を目的として「文芸会館(ムネフェグァン/現在はアルコ芸術劇場と改称)」がオープンした。「文芸会館」は一昨年の1979年5月に設計が確定し、会館には600席(固定)の大劇場と130席(可動)の小劇場とがある。建物の設計は韓国を代表する建築家である金壽根(キム・スグン、1931~86)があたった。
毎日経済新聞「文芸振興院、文芸会館が開館」1981年4月2日

劇団ホリホック・アカデミー『春香伝』韓・国立劇場(1981/11/21)

文芸振興院の発行する雑誌「文芸振興」1981年12月号と「東亜日報」1981年10月17日付け記事によると、韓国日報の主催で日本の劇団「ホリホックアカデミー」が国立劇場で『春香伝』を公演。出演はにしきのあきら、吉本真由美、笑福亭仁鶴など。劇団ホリホックアカデミーは韓国公演に先立って同年9月26日から3日間、大阪のサンケイホールで開催された「在日本全羅道々民会創立10周年記念大会」でこの『春香伝』を上演し、韓国へ持ってきた。

下は公演関連の前記事。劇評を掲載した記事は確認できなかった。
東亜日報「日語で春香伝公演、日本の劇団が国立劇場で」(1981/10/17)
「東亜日報」1981年10月17日付記事
韓国日報「ミュージカル春香伝、韓国公演/日、配役陣42名きのう到着」(1981/11/20)